2018年6月19日

感動!肥(ひの)国(くに)巡り③ 富岡城址

  • 国内スタッフ
  •  こんにちは。四国支部の池田です。

    生来遅筆なので失礼しましたが、諸々の圧にメゲず第三弾を投稿しますので、
    ご一読願います。
     この度の肥国巡りで訪ねたかった場所の一つは天草地域。
    少々ハードスケジュールでしたが、天草パールライン1号橋を渡り江戸時代の
    キリシタン一揆として有名な「島原の乱」を率いたと云われる天草四郎の像が建つ
    上天草市天草四郎メモリアルホールへ。
    10代半ばにして37,000人余の一揆軍の総大将となったカリスマ!
    銅像とはいえ威風堂々としており気品を感じました!!
    ①DSC_0082③

     
     そして次に訪ねたのが隣の天草市苓北町にある富岡城。
    なぜ、この城を目指したかと言うと…。

    苓北町歴史資料館「富岡城跡」案内に記されている田嶋章二町長の紹介文
    (平成27年7月29日)「天草・島原の乱の一揆勢が富岡城を占領して、
    富岡の地で乱が長期化していたら、その後は、どうなっていたでしょう。
    富岡は外洋に面しており、中世以来、数多くの外国船が出入りし、
    宣教師達も上陸しました。外国に開いた富岡での乱の長期化は、
    対外的にも大きなマイナスです。国内政治の乱れを感じとった諸外国の列強が、
    乱に乗じて日本に攻め込んだかもしれません。
    富岡城が、天草四郎を総大将とする約1万2千人の一揆勢の攻撃に耐えたことで、
    戦いの舞台は島原の原城に移りました。(中略)富岡城での攻防は、
    日本の歴史のうえで、非常に重要な出来事でした。
    乱の鎮圧後、徳川政権は安定化へ向かいました。この長期安定政権の中で、
    日本人の美徳である質素・倹約・勤勉性が養われたといわれています。(中略)
    もし、あの時、富岡城が落城していたら、徳川政権の安定も成立せず、ひいては
    今日のような日本は形成されなかったというのが、私の持論です。」に惹かれて
    富岡城を訪ねると、確かに外国船が近付き易い場所でした!!

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