海岸林再生に絡んで進めている北釜集落に住んでいた人々への聞き取り調査の
第3回目を、菊池慶子東北学院大教授とともに行いました。
今回はなるべく昔の話を聞こうと、鈴木かつ子さん(83)、桜井やへのさん(82)、桜井泰治さん(89)の
3人に集まってもらいました。
みなさん北釜集落で生まれ育ち、震災まで北釜で暮らしていました。
やへのさんは実家も嫁ぎ先も「桜井」姓、泰治さんはやへのさんの実兄です。
ざっと100世帯、400人が暮らす北釜集落には商店が二軒、病院などはなく、
北の閖上までよく出かけたそうです。
かつ子 「私ら閖上の歯医者さんさゆくときね、貞山堀の東側だね、ここをずっと行ったんだね、自転車で。
昔は自転車。閖上はこの辺から見れば町場だったのね」
やへの 「堀の西側の土手も歩いて行ったね。あとは“ふなごし”。オーイって呼んで舟に来てもらって
閖上さ行ったの。自転車のときは自転車も舟に積んでね。それを商売にしてたのね」
泰治  「でも、自転車分はとられなかったんじゃないかなあ」
やへの 「歯医者はサイトウって言うんだね。内科は増田(集落)にあった。
今はイセキ(井関農機東北支店、岩沼市下野郷)になってるところに陸軍病院があって、
わたし盲腸のときあそこにかかった」
泰治  「昔は閖上までよく行っていた。お祭りにも行ったっちゃ、日和山のね。花火大会もあったしね。
うちのじいさんなんぞ魚とりが好きなもんだから、入江になっているところさウナギ狩りに
行ったんですよ。とったものを売ったり食べたりね」
北釜から閖上に行くには川を渡らなければなりません。
渡し舟にのって対岸に行くのが「舟越し」。
向こう岸にいる舟を大声で呼んできてもらったそうです。
続いて、結婚をめぐる話です。
かつ子 「わたしはすぐ前のうちから後ろのうちに嫁いだの。40番地から39番地さ行ったの。
幼馴染でもないんだけどね。偶然にね。弥市さん(義父)が毎晩来るんだもの、頬かぶりしちゃあ。
息子にさけろけろってね。辻そばでうまくないんでねえかっていう話もあったんだけどね。
でも、じいちゃんが何でも理解があって、応援もらってね。本当にいいじいちゃんだった。
ほんとにね。長生きさせたかったね。隣だから何でも聞こえるっちゃ。
でも一回も家さ戻ったことはないんだ」
「見込まったんだ!」とすかさず相の手が入りました。
やへの 「わたしも近いことは近いさね。やっぱり来てけろ来てけろって言われたの。
青年団だの夜学だのってみんな一緒だから。男も女も一緒だったのね。
わたし、夜学してそろばんやったの。大宮先生が教えてくれた」
大宮先生は下増田尋常小学校(昭和16年からは国民学校)北釜分校の大宮貞治先生です。
先生が写った写真があって、それをみながら小学校の思い出話になりました。
泰治  「わたしらは大宮先生じゃなくて、前の先生だった。そのあとだね大宮先生は。
あのころは3年生まで分校にいて4年生から本校に行ったんだ」
やへの 「わたしは習いました。先生はずいぶん長くいたっちゃ。全教科教えていたね。
わたしらは5年になって本校にいったのね。1年と2年、3年と4年が一緒の教室で、
わたしら3年のとき、4年生は勉強しないで弁当食ってる人がいたね、こっちで。そういうこともあったのね」
名取の海岸近くには、戦後の昭和23年から10年間にわたる防潮林造成事業を記念して
34年に建てられた「愛林碑」が今も残っています。碑に刻まれているのは、大宮先生が書いた字です。
3人が口々にその事情を説明します。
「大宮先生は書道家だから。やっぱり筆持って書く人がいなかったからね。
先生は特別だっちゃね。習字が上手だったね」
「奥さんは裁縫の先生してたのね。分校に裁縫室があったの。
で、農閑期になっとね、女の人は裁縫習ったのね。昔は皆、着物直せるからね」
震災は写真などの資料をほとんどすべて流し尽くしてしまいました。
大宮先生が写った写真は残った貴重な1枚です。13人の集合写真で、
泰治さん、やへのさんのお父さんが大切にしていたものですが、説明がなく
いつどんな機会に撮ったのか、大宮先生(前列右端)以外にだれが写っているのか、
我々には分かりません。3人にあらためて見てもらうと、話が弾みました。

聞き取りは北釜に再建された観音寺の本堂で行いました

聞き取りは北釜に再建された観音寺の本堂で行いました


名取市の海岸林史聞き取り調査「北釜集落のお年寄りが語る」②に続きます。

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