インタビュー

「自分の技術を活かして復興に役立ちたい」

佐々木廣一氏
オイスカ名取事務所の統括を務める佐々木。2011年3月末に定年退職し、翌年2月、プロジェクトを担う立場に就いた。
プロジェクト全体を統括する立場にあるだけでなく、「名取市海岸林再生の会」の事務局長でもある。さまざまな仕事が複雑に絡み合うプロジェクトの要だ。
宮城県松島町出身。高校卒業後、1969年(昭和44年)に林野庁に入り、東北各県で国有林の管理・整備などの仕事に携わった。東日本大震災の直後、2011年(平成23年)の3月末に定年退職。現在に至る

 

— オイスカに関わるようになったきっかけは?

「現場で直接造林の指導をできる人がどうしても必要だ」って言われたんです。私は海岸林を担当したこともあったし、自分が身につけた技術を活かして復興にいくらかでも役立ちたいという気持ちも持っていた。頼まれた仕事は私が持っている技術のなかでやれると思いました。ほかにプロジェクトに総合的に関われるような人はいなかったということもあります。

ただ、最初は現場には事務所もなくて仙台のオイスカ支部で仕事をしろということだった。幸い、現場近くに土地が借りられて前田建設工業さんのご寄附でプレハブの事務所やビニールハウス、防風ネットができました。植物は毎日状況を見ないことには仕事にならない。近くにいることが大切なんです。

— 苗木作りを担ったのは、被災農家を中心とした再生の会のメンバー。震災翌年から、事務所に隣接した畑などでクロマツの苗作りを始めた。苗作りで苦労したことは?

国有林も昔は苗木を全部自前で作っていたんで、まったく知らないわけじゃなかったんです。苗畑にもずいぶん行き、悪い苗木はつき返したりしました。公務員の昇進試験で勉強もしたから理屈は知ってたしね。

地元の人には野菜と同じっていう感覚が強いけど、木と草本とは違う面が多い。彼らは野菜には詳しい分、そこを理解してもらうのに時間がかかりました。例えば小さい苗の段階だと木は野菜より弱い。野菜だと消毒剤を少々強くしても薬害は少ないが、木だと薬害がすぐ出てくる。移植するときも根をきちっと広げてやらないと、木が曲がったまんまになったり成長が止まったりする。野菜にはそういうことはないんです。そういうことを理解してもらって、いい苗木ができるようになった。地元の種苗組合長は最初、『素人がやることじゃねえ』と言ってたけど、二年目には『いや、たいしたもんだ』に変わりました。植栽を担当している森林組合の作業員も『ここの苗木が一番いい』と言っている。彼らはお世辞言う必要もないしね。

— 苗畑で二年育てた苗を海岸に植える事業は一昨年に始まった。植栽に対する考えは?

私は結果を出すためにここにいる。このプロジェクトはビジネスとしてやっているということです。ビジネスというのは、当然低コストということでもあります。苗木は買えば一本380円だけど、うちのコストは180円くらい。植林だって金に糸目をつけずにやれば1ヘクタール3000万円かかったりする。ここは110万円くらいです。寄附をもとに進めているプロジェクトだという意識ももちろんありますし。海外から視察に来た人にも、低コストできっちり結果を残すことが大事だと説明しています。それは自分が国有林の仕事を担当して心掛けてきたことと同じです。

植林の作業は森林組合などのプロに請け負ってもらってやる。苗木を出荷してから植えるまでの管理も簡単ではないから、効率よく、きちんと植えなければならないからです。ただ、寄付をしてくれる方々には、現地での作業を希望される人も多いから、ボランティアにはプロを補完してもらう。月一回のボランティアの日に手伝ってもらったり、年に一度は植樹祭をして植林の体験もしてもらったりしています。でも主力とはみなさない。あくまで補完という位置づけです。

森林組合のプロでも若い人には植林の経験のない連中もいるし、楽をしたくて手を抜きたくなることもある。誰も見てないところで作業をしますしね。それを、こっちも辛抱強く、精神的なことも含めて基本を繰り返し教えていく。もう一つは安全です。幸い、事故はまったくないけど、言わなくても分かることも言わなければ分からない、というのが安全の極意です。民間企業だったら大きな事故を起こしたら指名停止になって公共事業から締め出され、倒産しかねない。安全はそれほど重大なことです。朝のミーティングではなるべく具体的なことを言って、『ここに危険が潜んでいるから気を付けろ』と具体的に口を酸っぱくして言っている。ただ『危ないから気をつけろ』じゃ駄目なんでね。

— 現在までに植林が済んだのは38ヘクタール、19万本。「月面」とも言われる厳しい土壌にもかかわらず枯れないで根づいた苗は98%を超え、苗木作りも順調に進んでいる。結果は見事に残っている、といえるだろう

できすぎなくらいです。林野庁のプロや造林をやってる組織も素晴しいと言ってくれるし。乾燥が続いて限界だと思ったら雨が降ったり、虫害も広がらなかったり。私は『運も実力のうち。ゴルフとおんなじだ』ってずいぶん言ってきたけど、確かについていた面はあると思いますね。

でも、漫然としていてうまくいったわけではないですよ。たとえば、いつ植林を始めるかを決めるため、毎日天気を見ている。松の活動が始まる温度は3度だって言われているから気温や地温をチェックする。雨の降り具合、湿り気も大切だし、あとは風、蔵王おろしがいつ止むかも大きい。温度と雨と風ですね。桜の咲く時期も目安になります。大型連休には作業員が自分の田植えで忙しいから休ませなければならない。そういうことを総合的に判断して、長期予報も見て決めるんですよ。温暖化の影響だか、毎年少しずつ早くなっていますね。

技術者っていうのは、現地を見て、判断して、駄目だと思ったらすぐ変えられなくちゃだめです。そういう柔軟性、現実に正直であることが大切です。みんな枯れちゃったら自分たちの理屈は失敗だったんだって思えないとね。育苗でも、とにかく苗木を見ながら消毒や肥料のやり方を考える。南で虫害が出たら、もうすぐこちらにも来るなあと思って対策を立てたりする。そういうことの積み重ねです。

— 現場を任されるということは、技術ばかりではない。人操りも重要な仕事だと思います

10人を通年雇用でまるまる1年雇うのは簡単なんですよ。でもそうすると必要ないときにも人を雇っていなくちゃならないから金がかかる。必要なときに必要な人数をどうやって確保するかということです。復興が進んで再生の会の人たちは自分の農作業が忙しくなってきましたしね。大人数が要る種まきのときなど、どうしても足りなくなれば森林組合などに頼みますが、その手配が難しい。

地元の人には地場の賃金を払っている。安くても高くても批判されますからね。トラクターなどは農家の人たちから借り上げています。ここでは甘い汁は吸えないけれどきちっと払ってもらえるっていうのが、長い目でみれば信頼につながっていきますからね。そう考えています。

— はたから見ればとても難しい仕事をこなす佐々木さんの仕事の原点は何ですか?

私は24歳で担当区主任になり、ほぼ10年で東北の3か所を回りました。一人で1万ヘクタールの国有林を受け持って、計画や管理、経営をする仕事です。どのくらい木を切り出せと言われればその手配をし、切った後に植林する。植林すれば下刈りや除伐(植林した樹種以外の木を切ること)が必要になる。そういうことを全部計画して、山の調査もするし臨時日雇いも含めた作業員の手配もする。地元の集落には営林署からの請負仕事や木の払い下げで暮らしている人もいっぱいいるんで、彼らが出稼ぎに行かなくてもいいようにも考えなくちゃならない。そういったことを自分の責任でする。

担当区主任のとき、研修でよく言われたのが『技術者の頭と経営者の頭を同時に持て』ということです。技術者はやりたいことのために金に糸目はつけたくない。経営者は費用対効果を考える。常に両方の視点を持っていろという。主任の間に、人を使うことも含めてそういう訓練を受けるわけです。だから、課長ぐらいになるまでには本能的になって骨にしみついてくる。国有林は昔は独立採算制で自分の給料は自分で稼ぐっていう意識があったから、その点で国有林の人間は自信があるんです。海岸林の作業でも、例えば1ヘクタールの下刈りに何人用意すればいいかはすぐわかります。

—現在は週4日、松島の自宅から名取事務所に出勤する生活。趣味は歴史だという

初任地が川井村(現岩手県宮古市)だったんですが、ブナの山を調査していて石斧を見つけたんです。ちゃんと研いだ歯がついているきれいな石器でね。そういうこともあったし、転勤するたびにいろんな歴史が身近にありますからね。平家の落人部落があれば源氏の落人部落もある。平泉には藤原三代の中尊寺があるし、沢内村(現岩手県西和賀町)にはマタギのコレクションでは日本一の碧祥寺博物館がある。だからどこへ転勤してもよく歩いたし、本も読みましたよ。

一番すごいと思って感激したのは青森の三内丸山遺跡だよね。日本には都市国家はないんだと言われていたのに、三内丸山は推定で500人がいたんだと。発見されたときにはちょうど青森に勤務していたんで、きちっと遺跡が残されて本当に良かったと思います。日本人は自分の文化を軽んじる傾向があるけれど、あそこに行くとすべてが変わりますよ。日本の中心は東北だったっていうことも分かってくる。

インタビュー日:2016年7月
聞き手:公益財団法人オイスカ アドバイザー 小林省太(前日本経済新聞社 論説委員)

 

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